第9-17日 Vol.240  諸 の禪定の際を盡くさんと 【分別功徳品第十七】(六十六~七十二行)

法華経 分別功徳品第十七


★★ きょうの謎!
 
その謎1:幾つかの劫数として、無量億劫、無数劫、八十億万劫、百千万億劫に喩

     えて修行の長さを示してますが、これらはどれも同じで、得る福徳はそ

     の長さからは計れないことを意味するのでしょうか?
 
その謎2:禅定の修行とはどういうものなのでしょうか?
 
 
■■第9-17日  Vol.240
 
 諸 の禪定の際を盡くさんと
 
  【分別功徳品第十七】
  (六十六~七十二行)
 
■■今日の一偈一句
 
  モ  マタツト ショウジン シネンツネ ケンゴ    ムリョウオッコウ オイ   シン ケダイ
  若し復勤め精進し 志念常に堅固にして 無量億劫に於て 一心に懈怠せざ
 
     マタムシュコウ オイ  クウゲン トコロ ジュウ  モ  ザ モ  キョウギョウ ネムリ
  らん 又無數劫に於て 空閑の處に住して 若しは坐し若しは經行し 睡を
  
  ノゾ ツネ ココロ オサ   コ インネン モッ  ユエ  ヨ モロモロゼンジョウショウ
  除いて常に心を攝めん 是の因縁を以ての故に能く諸 の禪定を生じ 八十
  
  オクマンゴウ アンジュウ ココロミダ   コ  シン フク モ   ムジョウドウガング  ワレ
  億萬劫に 安住して心亂れず 此の一心の福を持つて 無上道を願求し 我
  
   サイチ  エ  モロモロ ゼンジョウサイ ツ     コ  ヒト  マンノク コッシュ ナカ
  一切智を得て 諸 の禪定の際を盡くさんと 是の人百千萬億の 劫數の中
  
   オイ  コ モロモロ クドク ギョウ    カミ ショセツゴト
  に於て 此の諸 の功徳を行ずること上の所説の如くならん
 
 
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  1. 今 日 の 解 読 !  (苦)
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 もしもまた勤めて精進修行し 志念を常に堅固にして 無量億劫の間に於て 
 
 一心に懈怠しなかったとする 又は無數劫の間に於て 空閑の処に住して あ
 
 る時は座しある時は経行し 睡眠の時間を除いて常に心を養ったとする この
 
 因縁を保持するが故に正しく諸々の禅定な精神を生み出し 八十億万劫の間に
  
  安楽に住して心乱れず この一心の福徳を維持して 無上道を願求するに
 
 我は一切智を得て 諸々の禅定の際限を尽さんと誓ったとする この人は百千
 
 万億の 劫数の期間中に於て この諸々の功徳を行ずることは先に述べた所説
 
 の如くである
 
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  2. 今 日 の 説 法 !  (集)
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前回まで、釈迦は弥勒菩薩に対し偈を説いて、佛の寿命長遠なる説法に信解して
大歓喜を生ずる大功徳とは違う、過去八十万億那由他の劫数に於てひたすら地道
に忍耐し、そして安楽に修行を積んできている修行者の尊さの幾つかの例を次々
に挙げて述べられていました。
 
今回も、さらにその偈の続きであり、次の修行例の効果として、
 
 もしも心から精進し 心がけを常に堅固にして 無量億劫の間 一心に修行を
 
 怠けなかったとして 又は無数劫の間、空閑の場所に住して 座すことと経行
 
 することで 寝ている間以外は常に心を磨いたとして この修養の因縁を保持
 
 するが故に正しい諸々の禅定なる精神を生じることができ 八十億万劫の期間
 
 中 安楽に住して心を乱さず このただ一心による福徳を宝にして 無上道を
 
 願い求めて 自身で一切智を得て 諸々の禅定の際限を尽くすまで修行すると
 
 しよう この人は百千万億の 劫数の中に於て この諸々の功徳を行ずること
 
 により先に述べた所説の如くなるであろうが、と。
 
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  3. 今 日 の 謎 !   (滅)
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まず、今日の謎を整理して見ることにしましょう!
 
その謎1:幾つかの劫数として、無量億劫、無数劫、八十億万劫、百千万億劫に
     喩えて修行の長さを示してますが、これらはどれも同じで、得る福徳
     はその長さからは計れないことを意味するのでしょうか?
 
その謎2:禅定の修行とはどういうものなのでしょうか?
 

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法華経 序品第一

 

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9-17

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コメント: 4
  • #1

    安田 和正 (火曜日, 20 1月 2015 00:04)

    日蓮聖人も親鸞聖人もひたすら禅定を目指していた。今その禅定を超えるものは一体何か?

  • #2

    ぶっけん (金曜日, 16 9月 2016 20:56)

    人生のテーマを何に決めるか?

     

    人生に何か一つのテーマがあるとすれば、ただその一つだけ目指せば簡単ですね!

    「テーマ」とはそもそも目標やスローガンとなるような主題、つまりタイトルですよね。

      

    それでは、今まで人類の大物哲学者など偉人といえる人たちはそのタイトルをどのように掲げたのでしょう?

    それは自分自身の欲求を満たす自己主張、つまり思いのままの自分ですべてを成り立たせることよりも、万物の共通原理を発見し出すことの方が断然、テーマとしては簡単に真実へ近づけると思えたことでしょう。

      

    つまり、テーマは新たに考えるよりすでに身近にいつも古くから存在しているということです。

    そのテーマはたとえば法華経の中にも聖書の中にも同じことが示されていることでしょう。

    そして、その法華経や聖書などのテーマへ導く重要な聖典はカテゴリ(分類)の書物といえるものでしょう。

      

    即ち、それら聖典の共通する教えは道徳ですね。

    しかし、その道徳とは共通テーマなのではなく、最終テーマへ導くためのアイテムに過ぎないのです。

    されば、道徳というアイテムとは、それを用いるのは宗教のみならず政治分野としての目的でもあるのです。

     

    そこであなたは、人生のテーマを探し出すことに宗教と政治のどちらを選びますか?

    宗教で探し出すほうの道を選べば、それだけで政治は行えるではありませんか。

    政教分離とは、政治活動協力者を求めるための都合でしかありません。

    政治活動しているときは宗教とは一切関係がないなどとは最も意味のない、軌道の外れたことなのです。


  • #3

    ぶっけん (土曜日, 17 9月 2016 22:20)

    完ぺきなものを要求したり、目指したり・・
    それらはすべて真実ではない。
      
    この世の中、そして宇宙の果てまで、すべてに完全なものなど無いからだ。
    この宇宙には「無」という完全な概念、つまり前提があって「有」という現実が存在しているのである。
     
    その「有」こそが、釈迦の比較する物事の大小だ。

  • #4

    ぶっけん成安田 (月曜日, 17 9月 2018 10:01)

    最初は何でも無かった・・
    それが仏教の目指す所です。
    苦境の有を治し無に戻すことが仏教の目的です。
    しかし、何をやっても難しい有ばかりが続いてはその苦しみから這い出ることもできず無に戻れるどころではありません。
    それどころか、様々な有ばかりがどんどん増えていくばかりです。
    だから、釈迦仏は自身の有を持って苦境の世の中に生まれてきたのです。
    この三界は我が有なり。