第1-9日 Vol.9  侍者阿難と佛子羅候羅 【授学無学人記品第九】(一~五行)

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■■第1-9日
 
 侍者阿難と佛子羅候羅
 
  【授学無学人記品第九】
  (一行~五行)
   
■■今日の一偈一句
   
 ソ トキ  アナン ラ ゴラ シカ コ  ネン ナ   ワレラツネ ミズカ シユイ    モ  ジュキ
 爾の時に阿難・羅候羅、而も此の念を作さく、我等毎に自ら思惟すらく、設し授記
 
  エ マタココロヨ    スナワ ザ  タ  ブツゼンイタ ズメン ミアシ ライ  トモ ホトケ モウ 
 を得ば亦快からずや。即ち座より起つて佛前に到り頭面に足を禮し、倶に佛に白し
 
  モウ   セソン ワレラ ココ オイ マタブン    タダニョライ       ワレラ  キ 
 て言さく、世尊、我等此に於て亦分あるべし。唯如來のみましまして我等が歸する
 
 トコロ   マタワレラ    サイセケン テン ニン  アシュラ  チシキ    アナン ツネ ジシャ 
 所なり。又我等はこれ一切世間の天・人・阿修羅に知識せらる。阿難は常に侍者と
 
    ホウゾウ ゴジ  ラゴラ  コ ホトケ ミコ
 なつて法藏を護持す。羅候羅は是れ佛の子なり。
 
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  1. 今 日 の 解 読 !  (苦)
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その時に阿難と羅候羅は、一息にこの念願を心に確かめた、我らは常に自分のことは
 
自分で決めてきたが、このような形で授記を得れるならばこれほどありがたいことは
 
ない。そう思うや否や座より立ち上がると佛前まで進み、頭と顔が足元へ付くほど深
 
く礼をなし、二人一緒に佛に申上げた、世尊、我らはこの場に於ては相応の分がある
 
はずです。唯一如来のみが来られましてそこが我らの生い立ちの所であります。また
 
我らのことは一切の世間の天・人・阿修羅の誰もが知っております。阿難は長い間、
 
佛の侍者となって仕え法蔵をお守りしてまいりました。羅候羅はこれ佛の子でありま
 
す。
 
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  2. 今 日 の 説 法 !  (集)
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この品では、弟子の阿難と羅候羅と更に2000人の学・無学の声聞弟子へ授記がなされ
ます。
また、前品の五百弟子受記品では同じく弟子の富樓那彌多羅尼子と僑陳如が授記され、
更にまとめて500人の弟子にも同じ授記がなされました。
これで最初の舎利弗、そして四大弟子を合計するとこれで2512人もの弟子が授記され
ることになるのです。
 
法華経の中で授記を受ける阿羅漢弟子たちの名はこの法華経序品第一と無量義経徳行
品第一の最初の部分に連名で紹介されています。
なお、序品第一での紹介は、先に阿羅漢弟子たちの名が連なり、次に菩薩がまとめて
紹介されています。これが、逆に徳行品第一では菩薩を優先し阿羅漢は後のほうに紹
介されているのです。
 
とにかく、どちらも阿羅漢と菩薩の両者集団は派閥が別区分されていますが、阿難と
羅候羅は阿羅漢の側に紹介されています。
なお、両者は序品と徳行品のどちらにも載っていますが、徳行品では羅候羅のことを
佛子羅雲という別名で紹介されています。
とりあえず、佛子と付いていることから羅候羅のことと解るのです。
 
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それでは、阿難と羅候羅が釈迦とどのような関係かをお教えしましょう。
阿難は、侍者となっていますが侍者とは釈迦に対する世話方のような役割りでしょう。
侍と書いて寺に人が添えられている形ですね。ですから、たとえば日本の侍などは寺
の世話方が重要な任務でもあったと考えられますね。
 
また、阿難の実情は釈迦の従兄弟であって十大弟子の一人なのだそうです。
そのうえに25年間釈迦の侍者として役割っているという非常に密接な間柄らしいで
す。
つまり、釈迦が住職なら、阿難が侍という感じになるのでしょうか?
しかし、日本などの実際の血筋の配備としてはその立場が逆も多いかもしれませんね。
 
つまり、歴史の現状では、釈迦が侍役となつて権力を持ち、阿難を指導しながら住職
の任務につけさせ、寺の運営や資産管理は受持ちの侍の本領という感じですね。
とりあえず釈迦の死後は、この阿難が、実際の権力ある侍の立場になって、住職を相
乗により他を任命し、その後運営管理していく寺院組織に関する最高権威者となる相
続の第一権限を持つ可能性のある者なのでしょう。
 
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また、阿難は、実際に釈迦の入滅の数ヶ月後、弟子達が集った際に、生前の釈迦の教
えをすべて暗記していて頭から涌述したといわれています。
無量義経と妙法蓮華経と佛説觀普賢菩薩行法経のこの三つの経の一番最初の出だしが
各々同じく「是の如きを我聞きき。」で始まっています。
これは阿難が「このようなことを私は聞いたのである。」と集った弟子達に話しだし
たということだそうなのです。
 
この法華経に於て各品毎の説明に「爾の時に・・」などとしてすべて阿難が語ってい
ることだけに高い権力を持つ阿難なのですね。
 
羅候羅は、佛の子とありますね。この佛とは釈迦のことであり、羅候羅は釈迦の実子
らしいのです。
また羅候羅もまた十大弟子の一人だそうです。
おそらく阿難は、羅候羅より年上のようであり、釈迦の死後は羅候羅の面倒を見てい
くことになるのでしょう。
 
やはり、その点に於ても羅候羅が寺の住職で阿難が侍職という系統があって、それが
長く続いていく関係があるようです。
釈迦といえど、不思議と意外にもこういった一族系統の考え方は永遠に引き継がれて
おり、保持して守っていく原則から外れた悟りはないようなのです。
こういう原則は釈迦ですら無視しては通れない、一族の掟は、釈迦こそ重大に責任は
果たし、持たされた者だったのではなかったでしょうか。
そして、これぞ釈迦こそ忠実に守った佛法の根本や道といえそうです。
 
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阿難が言う我らにも分がある!という言い方は一見変にも思われますよね。
つまり、釈迦の教えを受けてきた弟子の言い分としてはおかしいし、それが更に身内
揉めのような我がままを主張することをあえて表示する意味がわかりませんよね。
 
ここで、阿難と羅候羅の心理として今ここで言っておかなければ、釈迦だから忘れて
いるというような意図が明らかに表現されていると思いませんか?
それは、前品までの流れとして最初に大弟子が釈迦から次々に授記されていきました。
それら大弟子は皆願ってもない思いもかけなかった褒美かのよう感謝してその受記を
得ています。
 
そして、ある弟子の子でまだ幼くも思える富樓那が積極的に釈迦に感謝を述べ、その
上に当然の如くに受記を授けられる様を知らされるという状況を経てきています。
このことは、特に釈迦に縁深い阿難と羅候羅にとっては初めて見る釈迦の他の弟子へ
の優先順位としての血筋無視な授記に対し、多少なりとも不穏な気持ちを隠せなくな
っている状況があると考えられますね。
 
少しためらった後に、念のためにも今ここで言いだしておかなければならない、そん
な阿難たちの気持をリアルに伝えているように思えます。
 
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  3. 今 日 の 謎 !   (滅)
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まず、今日の謎を整理して見ることにしましょう!
 
その謎1:阿難たちが授記を待たず、自ら請求する言動は、何となく不
     穏なシーンに思えるのはどうしてでしょう?
 
その謎2:授記と受記には違いがあるのでしょうか?
 

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  4. 今 日 の 知 識 !  (道)
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今までの授記を見ていますと皆釈迦の側が一方的に声聞弟子に与えていましたね。
それは、声聞のままではいけない、成仏のためには菩薩になる覚悟が必要であること
を教えたい意味での指導と共に強制的に与えていたものと思えます。
それに対し、この品の阿難と羅候羅は釈迦の判断を待っていようにも授記を与える弟
子の順位が不当のように感じさせられたのでしょうね。
 
ところで、この品の中でこの後、釈迦は、このように阿難たちから授記の請願をされ
るとすぐさまに両者へ将来佛となるという授記を与えているのです。
これはまるで彼等の自分たちにもくださいと、あえて請願を言わせてからにしたいと
ばかりの措置だったように思えるのです。
 
皆さんはこの釈迦の考えをどう思いますか? どういう理由なのか、身内親族で近い
弟子達への授記を後回しに考えていたと共に、更に釈迦からは言い出さず、あえて直
接授記をしてもらいたいと願わせた上にそれまでの弟子と同様にためらいなく授記を
与えたのです。
 
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しかし、私たちの日常でもこんな考えはよくありますよね。
自分に近い親族が可愛いからとえこひいきや優先ばかりしていたら、他の親族以外の
者達への信頼を損ねますからね。
親族以外への公平な常識を見せたいなら、やはり釈迦のように身内親族は近い者ほど
後まで待たせておいても当然で、自らは先に欲しいなど言わせず、我慢させる了解く
らいは、より信頼関係で結ばれているなどのただ通常の習慣のように考えられますよ
ね。
 
しかし、それにしてもここであえてそういう習慣を教えのように見せ付ける意味もな
んとも理解し難いことです。
この親族はひょっとしたら上手く行ってないのかとも思わせますね。
 
実はその通りなんです。
そこを良く考えてみましょう!
 
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少し話を変えて、この品の授学無学人記品という題名は何だかややこしいような名前
ですね。
この品題の7字を良く見ると、最初の授の字を外して最後のつけると学無学人と授記
品とに分けれることに勘付きませんか?
これは偶然かもしれませんけど、学無学人を授記する品である意味になりますね。
また、学・無学人を授記ですっぽり包み込んだ感じなのかもしれません。
 
ところで、学・無学人とは声聞の弟子のことをいうようです。つまり、数多い声聞弟
子の中には修学を積んだ者もいれば、無学な者もいるのです。
これはあえて菩薩修行者と区分する為に、地位としての声聞とは特に様々な自己流な
修行の仕方、或いは知識がないのに知識があると思い込んだり、ただ単に高度な修行
者であるように見せ掛けている者さえいるピンとキリが入り混ぜの適度で曖昧な仏教
信者が主流な地位なのです。
 
これに対し、菩薩とは声聞とは比較にならないくらい厳しく正式に認められた苦行を
自らに課せ、必ず佛に成ることをノルマに目指す洗練された修行者のことであり、佛
の位の次に偉い地位のことです。
 
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ところで、前品までの授記について書かれている品の中にはその題名に「授記」と表
示した授記品第六と、「受記」と表示した五百弟子受記品第八とがあるのですが、こ
の違いはお気づきだったでしょうか?
 
そして、この品は授学無学人記品として一応、「授記」のほうですね。
これは何も法華経典の印刷間違いなのではなく、必ず意図的に変えてあるはずなので
す。
授記は授かる記だろうし、受記とは受ける記という違いだと思いますね。
 
これは、たとえば、受験というものが試験を受けるのであって、試験とは授かるとい
う意味はないですよね。
ですから、受記のほうの受けるとは受験のように自ら望んで得ることだけを意味して
いると考えられます。
 
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これは、五百弟子受記品第八での富樓那は外面は声聞でありながらも、実は内面には
菩薩の行を秘しているのです。
それが他の弟子とは一風変わっているのであり、菩薩と同様に自ら成佛を目指すノル
マを保持しているのであって、十分に自らに受記を受けるに値する段階にいるわけな
のです。
富樓那のほか矯陳如比丘も比丘でありながらも菩薩地位に値し、その他の同じ品の五
百人の弟子集団も皆団結して修行の磨き合いが菩薩修行に等しかったものと考えられ
るのです。
 
これに対し、授記品第六の四大弟子の声聞たちは、とても重要な腹心の大弟子として
の貫禄があるようですが、修行の正しさや厳しさは富樓那などの五百弟子のほうが
悠々勝っていたのでしょう。
 
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  5. 今 日 の 解 脱 !  (解)
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釈迦がまだ若い頃、城を捨てて出家したのは生半可な意味での決意ではなかったよう
です。その出家は釈迦の身内を大いに左右し、激しい亀裂が生じ、憎しみや疑いの連
続だったのが通常ではなかったでしょうか?
ですから、釈迦にも相当の意地と責任があり、正しいことは決して曲げなかったでし
ょうね。
 
そんな釈迦であっても身内を簡単に敵に回すのではなく、いつか信頼を勝ち得ること
をしていたのです。
そして、更に釈迦は、出家の筋道を理由に身内も他人も同等な査定という判断やきま
りにもしなかったのです。
そこが、釈迦の通常では思いつけない佛の特殊な智慧や判断力なのですね。
 
阿難や羅?羅へは決して他の弟子達とは同等な修行はさせず、近い身内ならでは側近者
のままの弟子として保持させているのです。
つまり、身内関係とはその中に於てもいろいろと家の上下などの格式の差はあっても、
お互いの言い分を言い合えるだけの公平さは最低限、保持しておかなければ成り立つ
ものではない。そのことをまず、基本的に釈迦は大事にしているのだと思います。
 
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宗教で一番大事なのは気兼ねをせず何でも言いたいことを相談できることですよね。
この状態保持が身内関係に於てもことさら何よりも大事な条件なのであり、この保持
を怠れば身内は崩壊して当たり前であることは、宗教一族を目指す釈迦にとっては尚
のこと、ごく不変な条件だったのです。
 
ある意味では身内関係を維持したり築くために宗教はあるといっても過言ではないで
しょう。
つまり、その原則をしっかり法華経はここで示しておいたと考えるべきなのでしょう。
 
私にも十分権利はあるはずだ!・・良しわかった、それならあげよう。
こういう関係こそが、真実の身内関係というものでしょう。
しかし、こういう身内関係は実際は厄介であり、古臭くて変である、と誰もが思う感
覚は、実は、釈迦の居た3000年位前にもすでに通常にあったということですよね。
 
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  6. 今 日 の 振 り 返 り !(脱)
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釈迦は生き物は皆、戦いを求め、戦いを流行らせなければならないことを悟ったので
はないかと、今までの私はまるで勘違いしていたようです。
 
確かに戦いも大切なのかもしれませんが、実際に法華経や釈迦の説きたかった事は身
内の身内らしい健全な安定感の保持のことだったのですね。
 
これはものすごい!私は素直にそう思えました。
 
今回も読んでいただき、誠にありがとうございました。
末永くご愛読いただけますよう、今後とも何とぞよろしくお願いいたします。
   (ぶっけん)
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