第5-1日 Vol.113  大乗經の無量義・教菩薩法・佛所護念を説きたもう 【序品第一】(三十~三十五行)

法華経 序品第一

 
★★ きょうの謎!
   
その謎1:釈迦はなぜ、最初から法華経とは違う無量義経の方を説き始めたのでしょう?
   
その謎2:佛所護念とはどいうものなのでしょう?
   
   
■■第5-1日 Vol.113 
    
 大乗經の無量義・教菩薩法・佛所護念を説きたもう
 
 【序品第一】
 (三十~三十五行)
   
■■今日の一偈一句
 
 ソ トキ  セソン シシュ イニョウ     クヨウ クギョウソンジュウサンダン     モロモロ 
 爾の時に世尊、四衆に囲繞せられ、供養・恭敬・尊重・讃歎せられて、諸 の
 
 ボサツ タメ ダイジョウキョウムリョウギキョウボサッポウブッショゴネン ナヅ  ト     ホトケコ
 菩薩の爲に大乗經の無量義・教菩薩法・佛所護念と名くるを説きたもう。佛此
 
  キョウ ト オワ   ケッカ フザ ムリョウギショサンマイ イ  シンジンドウ      コ
 の經を説き已つて、結跏趺坐し無量義處三昧に入つて身心動じたまわず。是の
 
 トキ テン  マンダラケ   マカマンダラケ  マンジュシャケ  マカマンジュシャケ フ    ホトケ
 時に天より曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして、佛
 
  ミウエオヨモロモロ ダイシュ サン  フブツセカイロクシュ シンドウ
 の上及び諸 の大衆に散じ、普佛世界六種に震動す。
 
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   1. 今 日 の 解 読 !  (苦)
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その時に世尊、四衆に囲まれた中、供養・恭敬・尊重・讃歎を受けて、諸々の菩
 
薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・佛所護念という経を説かれ出しました。佛
 
はこの経を説き終ると、結跏趺坐(けっかふざ:両足を組んで座ること、修行者
 
の正しい座り方)し無量義處三昧の瞑想境遇に入って身も心も不動の状態となり
 
ました。この時に天より曼陀羅華(まんだらけ:天上界に生ずるマーンダーラヴ
 
ァ樹の花)・摩訶曼陀羅華(まかまんだらけ:大きな曼陀羅華)・曼殊沙華(ま
 
んじゅしゃけ:天上界に生ずるマンヂューシャカ樹の花)・摩訶曼殊沙華(大き
 
な曼殊沙華)を降らして、佛の上及び諸々の大衆に散らし、すべての佛世界は六
 
種類に震動を起こしました。
    
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   2. 今 日 の 説 法 !  (集)
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この前回では、多くの阿羅漢や声聞弟子をはじめ、さまざまな天神や王などの参
列が記されていましたが、今回はいよいよこの法華経において初めての釈迦佛の
登場のシーンです。
   
「爾の時に世尊、四衆に囲繞せられ、」とある世尊とは釈迦牟尼佛のことです。
そして、四衆に囲繞せられの、四衆とは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四種の
衆生であって、出家・在家の男女、つまり佛法を拠り所とする一切の衆生の中で
も特に人間の修行初心者たちのことです。
   
つまり、釈迦は王舍城・耆闍崛山に滞在中において、常には四衆と共に過ごして
いたということでしょう。
なお、阿羅漢や声聞等も本来は比丘・比丘尼などに含まれます。
   
ところで、釈迦は登場するや否や、何も言わず、ただ、大乗経、それも無量義経
を説き始めたのです。
つまり、無量義・教菩薩法・佛所護念とは、無量義経のことです。   
   
その無量義経を説き終えると釈迦は、さらに何も言わないまま、正しく正座した
まま無量義處三昧という瞑想に入り、そのままじっとしたまま動かなくなりまし
た。
   
するとその時に、天より曼荼羅華・摩訶曼荼羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華の四
種類の花が雨のように降らされてきて、佛、つまり釈迦の頭上、および集まって
いたさまざまな大衆に散じられました。
   
そして、すべての佛の世界の大地は六種類の震動を起こしました。
   
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   3. 今 日 の 謎 !   (滅)
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まず、今日の謎を整理して見ることにしましょう!
   
その謎1:釈迦はなぜ、最初から法華経とは違う無量義経の方を説き始めたので
     しょう?
   
その謎2:佛所護念とはどいうものなのでしょう?
 

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法華経 序品第一

 

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5-1

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コメント: 1
  • #1

    ぶっけん成安田 (日曜日, 30 4月 2017 22:18)

    【禅と三昧について】
     
    禅も三昧も瞑想にふけり精神を統一する修行法としては同じ意味なのです。
    とかく、法華経の中では禅よりも三昧が多く様々な種類として示されています。
    それは教えが何であるかを説くには三昧の修行が必要だからです。
    つまり、禅と三昧とは基本的には違うはずなのです。
    禅と三昧は心を落ち着かせて瞑想することは同じですが、私が考えますに、禅は「集中」であって、三昧は「拡散」だと思うのです。
    そして、禅とは達成の途中であって、これから目指す心掛けに入る段階と考えられ、これに対し、三昧とは夢や理想を実現させるための仕上げ段階にあると思うのです。
    お釈迦さま曰く「禅と三昧を実践しなさい」と教えたそうです。
    そのように物事を達成するために、先ずは禅で心掛けは何かを知ろうとし、それにより悟りが定まってくることで心が高まってきてイメージコントロールできるようになるのが三昧だと考えられます。
    よって、禅とはシンプルを極める修行であり、それに対し、三昧とは出たところ勝負の実践なわけです。
    そのように、三昧としての実践段階の際には実はシンプルではないのだと思うのです。
     
    実は今回の法華経序品第一では、最初、大衆の前に姿を現した釈迦仏はなぜか法華経ではなく、いきなり無量義経を唱え始めたのです。
    つまり、シンプルではありませんね。
    そして唱え終わって無量義處三昧という三昧に入ってじっと身を動かない状態になりました。
    それにより、必ず変化してくるものがあるのです。